四国(愛媛県)に行くに際し、車だったので道順を調べてたら、瀬戸大橋を渡り香川県を突っ切って向かうルートが記された。で、その地図の途中に私がつけてるであろうチェックポイントがあったので詳しく見てみると、とある神社であった。
御祭神はもちろん菅原道真公ですが、今までの神社とは趣がちょっと違うのかな?
光孝天皇の御代、仁和2年正月16日、菅原道真公が御歳42歳のときに讃岐の国司に任ぜられました。
同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住まわれました。現在の神社境内地はその官舎跡だと伝えられています。
仁和2年は西暦886年。
大宰府に左遷されたのが901年。政治の中心で活躍する前の時代ってことなのね。
ってか、そもそも学問の神様。天神様。→道真公ってことしかほとんど知らない私。
350枚越えの四国観光の写真は間違って削除してしまったこともあり、記事を書くにあたって、内容を持たせるのに、調べてみた。
代々続く、学者の家に生まれた道真。
秀才として成長。18歳で文章生(もんじょうしょう)という、漢学を学ぶ学生となり学生寮で学ぶ。
特に優秀な二人が選ばれる文章得業生(もんじょうとくしょうごうしょう)に選ばれその後も次々と出世。
従五位下(じゅうごいのげ)という貴族の身分を得、その後漢学を生かして貴族や天皇らに様々な助言や補佐をする文章博士という学者でも高い身分をゲット。順調に出世を重ねる。
そして、讃岐の国司になる。つぶさに国内を回り、民とともに生きて実績を残していたのを、宇多天皇に認められ、政治の裏側の権力争いがうごめいている中、参議(さんぎ)と呼ばれる朝廷の最高幹部のポジションにつく。
そして宇多天皇に恨み(?)を持ってる藤原時平が当時の最高官位だた大納言となり、いろいろ疲れた宇多天皇が退位、政治は道真にまるなげしたとか。
醍醐天皇が即位、道真は右大臣、時平が左大臣となりが、学者の身分で右大臣とは偉そうな!とかいわれていたあげくに、後ろ盾の宇多上皇が出家して、道真は孤立。
時平の道真外しの陰謀が始まり、道真は醍醐天皇廃位をもくろんでると天皇に密告。不安になった醍醐天皇が、道真の大宰府左遷を決定。
最後まで平安京に戻りたかった道真の思いはかなわず、大宰府で生涯を終える。
そうだったんだね~。なんか、宇多天皇に振り回された感で不憫だわ~。
でも讃岐の人々にも、大宰府の人にも愛されたということなので、それはよかった。
境内はとても静謐としてました。
七福神さんが勢ぞろいしてたし、(福禄寿さまが特化!?)なで牛さまはもちろん、うそ鳥さんてのもいてました。鶯(うそ)かえ祭ってのが4月の24日にあるそうで、それは手作りの木彫りの人形、うそ鳥を交換することにより悪きことを良きことに取り換え、福を呼ぶとされているんだそう。その木彫りの人形の見本(?)みたいなのがあったんですね~。
ただ、そんなに広い境内じゃなくて、わりとすぐに参拝は完了。御朱印を頂きました。
この時節、書置きタイプの配布でしたが、しおりとか、境]
でとれた梅から作った梅干しとか、全部セットで500円。なんだか幸せな気分です。
さてさて、無事に滝宮天満宮をお詣りしましたが、その前に問題は発生しておりました。
ナビで目的地登録をしていましたが、私、全然気づかずに滝宮神社を目的地にしてたみたいなんですよ。。。で、スマートインターから下ってきて、目的地付近に到着しましたって言われて、なんか、イメージと違って、随分とさびしいなぁ。。。ってうろうろしてたら、なんか、と~っても美しい桜の街道が目に入ってね。そこを通り抜ければ、ほんとの目的に滝宮天満宮に到着したという。。。
仁和寺の法師になるところでした!?(^^;
滝宮神社は御祭神がスサノオノミコト。もとは「牛頭天王(ごずてんのう)の祠」って称された。
うん、たっくさんの牛さまいたから、だからそこが目的地だと信じたんだよ。
でも道真公が国富を務めた時代、讃岐の国一国の氏神様だったんですって!
天満宮と合わせて滝宮両社と呼ばれてるんですって。
建物は古かったけど、とても立派でした。 いっぱい写真、撮ったのになぁ涙